京都五山送り火
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    8月16日は京都五山送り火が行われます。

     

    京都五山送り火

    五山送り火(ござんのおくりび)は、毎年8月16日に京都府京都市左京区にある如意ヶ嶽(大文字山)などで行われるかがり火。
    宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」と呼ばれることがある。


    概要

    京の夏の夜空を焦がす京都の名物行事・伝統行事。
    葵祭・祇園祭・時代祭とともに京都四大行事の一つとされる。

    毎年8月16日に
    「大文字」(京都市左京区浄土寺・大文字山(如意ヶ嶽)。20時00分点火)
    「松ヶ崎妙法」(京都市左京区松ヶ崎・西山及び東山。20時05分点火)
    「舟形万灯籠」(京都市北区西賀茂・船山。20時10分点火)
    「左大文字」(京都市北区大北山・左大文字山。20時15分点火)
    「鳥居形松明」(京都市右京区嵯峨鳥居本・曼陀羅山。20時20分点火)

    以上の五山で炎が上がり、お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされる。

     

    点火時間は昭和37年までまちまちだったが、昭和38年から観光業界からの要請により、大文字が20時ちょうどの点火となり、反時計回りに20時10分から松ヶ崎妙法、20時15分から舟形万灯籠および左大文字、20時20分から鳥居形松明と固定化した。

    平成26年に51年ぶりに点火時間が変更され、松ヶ崎妙法および舟形万灯籠がそれぞれ5分点火時間が早まった。
    この変更により五山が5分おきに点火されていくことになる。

    なお、近年では「大文字」が最初に点火されているが、昭和31年頃までは「大文字」は最後に点火されていた、とする文献がある。
    これは大文字が五山の中でも横綱格であるから、という理由からであるという。

    また、日本の太陽暦移行後は20時よりの点火となっているが、それ以前のいわゆる旧暦の時代は、1時間程度早かった、と言う説が平成26年、在野の歴史研究者である青木博彦により打ち出された。
    これは本居宣長 宝暦6年(1756) 『在京日記』などの資料を分析した結果であるという。


    各山の解説

    山名は鳥居形を除き国土地理院地形図の表記に従うが、他説も併記する。
    鳥居形の所在する山については、地形図に山名の記載がないため、京都市観光協会・大文字五山保存会連合会の挙げる呼称を併記する。
    また、如意ヶ嶽以外の四山(妙法・舟形・左大文字・鳥居形)は入山禁止である。

     

    大文字

    所在地:京都市左京区浄土寺七廻り町(じょうどじ ななまわりちょう)
    山名:大文字山(だいもんじやま)。

       如意ヶ岳、如意ヶ嶽とも呼ばれていた。
    火床:75か所
    大きさ:一画80m(45間・19床)、二画160m(88間・29床)、三画120m(68間・27床)
    保存会:浄土院の(元)檀家による世襲。

     

    もともとは一帯の山塊を「如意ヶ嶽」と呼んでいたが、現在は火床がある西側の前峰(465.4m)を「大文字山」と呼び、最高点である主峰(472m)を「如意ヶ嶽」と呼ぶ。
    特に「左大文字」と区別するときは「右大文字」・「右の大文字」ともいう。
    大の字の中央には大師堂と呼ばれる、弘法大師を祀った小さなお堂がある。

    登り口は、送り火の時にも使われる銀閣寺の北側からのものが主ルート。

    大文字山(如意ヶ嶽)の地元地域の人には、他山との違いと尊称の意味も含めて、古くから山そのものを「大文字さん」と呼ぶ人も多い。
    火床は、古くは杭を立て松明を掲げたものであったが、昭和44年以降は細長い大谷石を二つ並べた火床の上に、井桁に薪を組むかたちとなっている。

    第二次世界大戦(太平洋戦争)中である昭和18年には、灯火管制的見地から送り火が中止されたが、代わりに早朝に白いシャツを着た市民(地元の京都市立第三錦林小学校の児童ら)が山に登り、人文字で「大」を描き、英霊にラジオ体操を奉納した。
    翌昭和19年にも錦林小学校、第二 - 第四錦林小学校児童がやはり人文字を描いている。
    昭和20年も送り火は行われず、終戦の翌年、昭和21年に再開された。

    また、日清戦争戦勝時には「祝平和」の文字が灯されたほか、日露戦争にちなんで点火されたこともある。

     

    松ヶ崎妙法

     

     

     

    所在地:(妙)京都市左京区松ヶ崎西山、(法)京都市左京区松ヶ崎東山
    山名:(妙)西山(135m)、(法)東山(186m)。

       西山については万灯籠山、東山については大黒天山とも呼ばれる。

       二山合わせて妙法山とも呼ばれる。
    火床:(妙)103か所、(法)63か所
    大きさ:(妙)最大100m弱、(法)最大80m弱
    保存会:涌泉寺の(元)檀家による世襲。

     

    二山二字であるが、一山一字として扱われる。

    涌泉寺の寺伝によると、徳治2年、松ヶ崎の村民が日蓮宗に改宗したとき、日像が西山に「妙」の字を書き、下鴨大妙寺の日良が東山に「法」の字を書いたという。

    「妙」の字付近は、近くに京都市水道局松ヶ崎浄水場の配水池があるため、一般人は立ち入り禁止になっている。

    「法」では家ごとに担当の火床が決まっているが、「妙」では火床の担当を町ごとに順繰りで交替する。
    うち二基は浄水場の職員が担当する。

     

    舟形万灯籠

    所在地:京都市北区西賀茂船山(にしがもふねやま)
    山名:船山(ふなやま)。

       万灯籠山・西賀茂山とも呼ばれる。
    火床:79か所
    大きさ:縦約130m、横約200m
    保存会:西方寺の(元)檀家による世襲。

     

    船の形は、承和14年(847年)、唐からの帰路に暴風雨にあった、西方寺の開祖・慈覚大師円仁が「南無阿弥陀仏」と名号を唱えたところ無事到着できたという故事にちなむという。

     

    左大文字

    所在地:京都市北区大北山鏡石町(おおきたやまかがみいしちょう)
    山名:大文字山(または大北山)。

       区別のため左大文字山とも呼ばれる。標高約230メートル
    火床:53ヶ所
    大きさ:一画48m、二画68m、三画59m
    保存会:法音寺の(元)檀家による世襲。35世帯(平成2年)

     

    万治元年(1658)の『洛陽名所集』には記載が無く、延宝元年−天和元年(1673-1681)の『山城四季物語』に記載があることから、この間の期間に始まったのではないかとみられている。
    成立について特に伝承や記録などは残っていない。
    この山は険しい岩山であり、かつては杭を立てた上にかがり火のかたちで送り火を行っていた。
    固定された火床もなく、かつては荒縄を張るなどして形を決めていたため、毎年形が変わっていたと言う。
    平成23年現在は栗石とコンクリートで作られた53の火床が使用されている。
    また、大文字は一斉点火であるが、左大文字は筆順に沿って点火される。

    昭和35年に、火床を「大」の字各方面に2床ずつ、合計10床増加させた。
    8月の上旬には、保存会の手により、法音寺に高燈籠が掲げられる。

     

    鳥居形松明

    所在地:京都市右京区嵯峨鳥居本一華表町(さが とりいもと いっかひょうちょう)
    山名:曼荼羅山(まんだらやま)。

       あるいは仙翁寺山(せんおうじやま)・万灯籠山。
    火床:108か所
    大きさ:縦76m、横72m
    保存会:他山と違い唯一、寺の檀家の世襲ではなく有志による。

     

    松ヤニが入った松を使うため、火の色が他山とは少し違いオレンジに近い色になっている。

    火床は、他山と違い、木を組むのではなく、松明をそのまま突き立てる。
    親火床から松明を持って各火床に走るので「火が走る」とも称される。

     


    起源・歴史

    山に画かれた字跡に点火する行為の起源については、平安時代とも江戸時代とも言われているが、公式な記録が存在するわけではない。
    場所と行為を具体的に特定した史料が登場するのは近世に入ってからである。
    『雍州府志』によると、盂蘭盆会や施餓鬼の行事として行われていたとあり、『花洛細見図』にも「盂蘭盆会の魂祭」として紹介されていることから、江戸時代前期から中期までにはそれに類する性格を持っており、大文字、妙法、舟形、加えて所々の山、原野で火を点けていた。
    なお、以前の京都は過度の森林利用のせいでハゲ山が多く、森林は少なく、それが故に送り火という文化が産まれたのではないかという説がある(京都精華大学人文学部教授 小椋純一による)。

     

    近世の送り火

    江戸時代前期以降、京都の文化や地理を記した書籍が好んで発刊されるようになった。
    これらでは送り火についても取り上げている。
    これより前の時期、京都における民間の習俗について触れた史料は乏しく、そのため、送り火については江戸時代以降の史料を中心に見るより他ない。
    (旧暦の)7月16日の夕刻、あるいは晩に点火する。
    その性質から、聖霊の送り火(精霊の送り火)、亡魂の送り火などと呼んでいた。
    大文字山の西北の面に大の字の跡があり、それに点火する。
    多くの史料でこの山について取り上げているが、当時は大文字山という呼称はなく、史料により、如意が嶽、如意宝山(『出来斎京土産』)、慈照寺山(『雍州府志』)、浄土寺山(『日次紀事(ひなみきじ)』)などの差が見受けられる。
    これらはいずれも同一の山を指していると考えられる。
    大の字の跡以外に、妙法、舟形(『雍州府志』では船形、『案内者』・『出来斎京土産』では帆かけ舟)にも点火した。
    妙法については、『日次紀事』などで松ヶ崎の山としているほか、『花洛細見図』では大文字山と対になる形で松ヶ崎のあたりに「法」の字が描かれている。
    舟形については多くの史料で北山の所在としているが、明確な所在地は記されていない。
    左大文字について、史料上の初出は『扶桑京華志』であるが、他山と比較して取り上げている史料の数が乏しい。
    鳥居形について、史料上の初出は他の四山より大きく遅れており、江戸時代中期も終わる頃に発刊された『翁草』とされるが、それ以前の絵図にも鳥居形と察せられる送り火の様子が掲載されている。

     

    大文字の起源・筆者

    近い時期に発刊された史料であるにも関わらず、大文字の起源・筆者については史料ごとに差が見受けられる。
    説の初出順、発刊年順に列記する。
    大の字は青蓮院門主が画いたものである。(『洛陽名所集』・『出来斎京土産』)
    大の字は三藐院(さんみゃくいん)(近衛信尹(このえのぶただ)を指す)が画いたものである。(『案内者』)
    大の字は弘法大師が画いたものである。(『山城四季物語』・『雍州府志』・『都名所車』・『都名所図会』など)
    大の字は相国寺の僧・横川景三が画いたという説と、弘法大師が画いたという説がある。(『日次紀事』)
    大の字は横川景三が相国寺に対して大の字が正面を向くように考慮して画いたものである。(『菟芸泥赴』)
    大の字は足利義政の命により、横川景三と芳賀掃部が画いたものである。芳賀掃部は義政の臣であると同時に横川景三の筆道の弟子でもあった。(『山州名跡志』・『山城名跡巡行志』)

    筆者について、史料上の初出は『洛陽名所集』の青蓮院門主説であるが、三藐院説、弘法大師説と続き、横川景三説が登場するまで18年の年差しかなく、発刊時期の近い史料に多くの説が混在している。
    『雍州府志』では、誰々が画いたという俗説が多く存在していることについて、謬伝(誤って広まった噂話)ではないかとしている。

     

    近代の送り火

    現代では五山で行われているが、近代には他山でも行われていたとされる。
    下記の五山が有名であるが、さらに他の山でも行われていたとする伝承もある。

    以前は点火していたとされる送り火

     

    「い(かながしら・いちはら)」

    京都市左京区静市市原町
    京都市左京区鞍馬二ノ瀬町

    市原の村の裏山で灯されていたもの。市原野小学校創立百周年事業委員会による『いちはらの』昭和51年(1976)の中で、坪井正直は、担当する家に死者が多かったことや経費上の問題から明治初年に廃止されたとしているという。

    だが、京都精華大学の小椋純一によれば、京都新聞の前身である日出新聞では、明治30年代の初め頃まで点火されていた事が確認できるという。
    小椋はこの時期に「大文字」が松の木に隠れて見えにくくなりそれを伐採したと言う記録があることから、「い」についても同様な状態であり、また、「大文字」手前の樹木は民有であったものが「い」手前の樹木は官有の物であったため伐採が行えず、また「い」自体の重要度も低かったことから、市原の住民の意欲を削ぐなどしたことが廃止の一要因ではなかったか、との説を唱えている。

    平成30年(2018)、京都大学霊長類研究所の正高信男教授は、江戸時代の文献などを手がかりに実地調査を繰り返した結果、京都市左京区の鞍馬二ノ瀬町の「安養寺山」に、縦5メートル、横15メートルほどのL字型に削った跡が三か所、見つかったと発表した。
    この跡は、現在も使われている文字や形に火をともす場所に似ており、正高教授はここで「い」の送り火が行われたと推測している。
    正高教授は、向山で「い」の送り火が行われていたという説について、各地の送り火にはそれを担う寺社があるが、向山には存在しない。
    また、江戸時代の地図には「い」の文字は賀茂川の東側に描かれているが、向山だと西になるのでおかしいと指摘している。
    正高教授の発表について、小椋教授は、向山とは別の山に「い」の文字があったとするのは不可解だと指摘し、ほかの文字の送り火を行っていた可能性もあり、さらに調査が必要だとしている。
    小椋教授は、送り火に向山が使えないときの代替手段として安養寺山を使ったのかもしれないと推測している。
    また、この発表について、京都の伝統行事や祭事に詳しい佛教大学の八木透教授は、現時点では確定的なことは言えないものの信憑性がある見解だとし、その根拠について、
    鞍馬二ノ瀬町の山が京都市内から見えること
    平坦な土地に火をともす場所、「火床」とみられる痕跡が見つかったこと
    この山は市原の集落からも見ることができ、「い」の文字が集落の頭文字だったとしても位置関係はおかしくないこと

    などを挙げている。 そのうえで、八木教授は、現時点では確定的なことは言えず、現地調査も含めたさらなる研究が必要になってくるとしている。

     

    その他
    「一」(京都市右京区鳴滝)
    「竹の先に鈴」(京都市西京区松尾山?)
    「蛇」(京都市右京区北嵯峨)
    「長刀(なぎなた)」(京都市右京区嵯峨観空寺)

    このうち、「竹の先に鈴」の点火地については、田中緑紅の『京都』では松尾山とされているものの、明治20年代の日出新聞(現在の京都新聞)の記事では、左京区静原、あるいは、左京区一乗寺とされている。

    また、「蛇」や「長刀」の寸法などが書かれた古文書が発見された。
    但し年号がないため、書かれた時期は不明だが、日付が旧暦であるため明治5年以前であることは間違いないであろうと思われる。

    これらの送り火がいつ頃消滅したのかはっきりとしていないが、明治時代から昭和初期頃にかけて徐々に数を減らし、現在の五山に減少した後に、五山送り火という呼称が定着した。


    「大文字焼き」という呼び方について

    地元の人の中には「大文字焼き」という呼び方を嫌悪する者もいるが、昔は大文字焼きと呼ぶ人も多かったという意見もある。
    今の京都では他の送り火も含めて単に「だいもんじ」と呼ぶのが一般的で、「焼き」を付することはない。
    近年、京都の大文字を模して全国各地で同様の行事が行われているが、そのほとんどが「大文字焼き」と称している。
    これがマスコミその他で京都五山の送り火を大文字焼きと呼んで違和感を持たない理由とも考えられる。
    京都の送り火に「焼(や)く」という要素はなく、しいて言えば「焼(た)く」のであって、京都に限ればやはりこの呼び方は不適切とすべきであろう。
    この呼び方は毎年1月に奈良で行われる「若草山の山焼き」との混同から生まれたのではないかとする識者もいる。
    なお、「大文字山焼き」と称されることもあるが、「山焼き」は、新芽を出させるために山腹の広い範囲を焼くことであって全く異なる。


    休止期間

    戦時中の昭和18年から昭和20年まで灯火管制などの理由から送り火が中止された。


    その他

    ・明治以降、夏以外に戦勝などのイベント絡みで数回点火されたことがある。直近では平成12年12月31日に五山全部で点火された。
    ・平成15年9月13日の夜には、当時、18年ぶりのリーグ優勝目前の阪神タイガースファンのおよそ25人が大文字山に登り、各々の懐中電灯で阪神のHTマークを照らし出した騒ぎがあった。
    ・京都市眺望景観創生条例に基づいて、各五山への「しるしへの眺め」が損なわれないように建築物に規制が課せられている。
    ・平成23年8月16日開催分において、東日本大震災被災地である岩手県陸前高田市の被災松を一旦受け入れたものの、一部の放射能汚染を不安視する声を受けて8月6日受け入れ中止となった。
    (このことから京都市水道局は、セシウムを中心とした核汚染物質についての浄水への混入を測定し続けている。)
    その後主催者側の決定に対し抗議・非難の電話が殺到したため、同月11日に一度は中止の決定を覆したものの、新たに取り寄せた松から放射性セシウムが検出されたため、翌12日には被災松の使用中止という結末となった。
    ・かつては、一般人が送り火の当日に大文字山に登って、火のすぐ隣で送り火を見ることが可能であった。
    山の上からは五山の送り火全てを見ることができ(自分がいる大文字そのものは「大」には見えないが)、京都市街の明かりがだんだん減灯していく様子や、送り火の点火と同時に市街全域で激しく焚かれるカメラのフラッシュが幻想的で、徐々に登山者が増えていった。
    しかし、不特定多数の人間が火の横にいることは危険が伴うため、当日登山のできる時間を17時までとし(後年に16時までと)、それ以降は警備員を登山口に配して登山禁止とした。
    しかし、それでも一般人登山者が減らないうえ、送り火の最中にフラッシュを焚いたり、懐中電灯を点灯する一般人登山者が多く、市街から見て見栄えが良くないため、現在では一般人は点火当日は13時までに下山をし、それ以降は全ての登山口に警備員を配して一切の当日登山を禁止している。
    それ以外の日の登山は自由で、京都市街の眺望のよい山として人気がある。
    ・大文字の点火直前の流れは、まず19時頃からすべての字画の交差する場所(金尾という)の前にある弘法大師堂で法要が始まる。
    各火床担当の保存会員が集まった中、浄土院の住職が読経を延々と続ける。
    19時55分に金尾の火床(最も多くの木が積み上げられている)に弘法大師堂の灯明から採った火が移され点火される。
    そのため公式点火時間の5分前には1点だけの点火が麓から見られる。
    20時に近づくと、保存会長は長い棒の先の松明に金尾から採火して点灯し高く掲げて、ハンドマイクなどを使って「一文字(用意は)いいか」「字頭いいか」「北の流れいいか」「南の流れいいか」などと確認をし、そのたびに各持ち場から「いいぞ」・「よし」などの返事が返る。
    準備が整ったことを確認すると、保存会長は松明を各持ち場に見えるように大きく振り回し「点火!」と叫ぶと一斉に全ての火床に点火される。
    点火からしばらくは煙が大量に発生し京都市街をほとんど見ることが出来ないが、煙が収まると京都市街に無数のカメラのフラッシュが見られる。
    火の点火中、弘法大師堂ではずっと浄土院の住職らによる法要が続けられ、拍子木の音が鳴り続ける。

                        (Wikipediaより)

     

     

     

     

    posted by: 1513neoya | とはずがたり | 04:08 | comments(0) | - |